「鎌倉殿の13人」畠山重忠を始末した時政・りく夫婦。しかし…第36回「武士の鑑」予習 (6/8ページ)
【吾妻鏡】
6月22日 重保・重忠がそれぞれ討たれる
6月23日 稲毛重成・榛谷重朝が粛清される
7月1日 合戦以後、初めて御所で酒宴
7月8日 論功行賞。政子の差配で重忠らの遺領を御家人らに配分
7月20日 女官らにも遺領を配分
閏7月19日 牧の方の陰謀発覚、義時らが実朝を救出。時政が出家
閏7月20日 時政が伊豆へ下向。義時ら評議により朝雅追討の使者を京都へ
閏7月25日 鎌倉からの使者が京都へ到着
閏7月26日 朝雅が京都で討たれる
【保暦間記】
6月22日 『吾妻鏡』と同じ
6月23日 牧の方が稲毛重成・榛谷重朝と実朝暗殺計画を立てる
7月20日 義時が実朝を危機一髪で救出
※恐らく同日、時政夫婦が伊豆へ流罪(出家の言及はなし)。その後消息不明に
7月26日 朝雅が京都で討たれる
日付が重なるところもありますが、閏月の分だけ丸一ヶ月ずれているようです。恐らく『保暦間記』の筆者(南北朝時代の人物と推定)は、この年が閏年であると認識していなかったものと思われます(何しろ書いている時点から100年以上も昔のことですし)。
また『吾妻鏡』ではトカゲの尻尾切りで粛清された稲毛重成と榛谷重朝について『保暦間記』では言及がないものの、人知れず始末されたのでしょう。
エピローグ以上、時政夫婦による実朝暗殺計画「牧氏の変」を紹介してきました。
濡れ衣によって武士の鑑と謳われた畠山重忠が喪われ、義時はいよいよ「鎌倉のためを思うなら、本当に戦うべき」相手に向き合わざるを得なくなります。