「鎌倉殿の13人」時政・りくの謀叛計画「牧氏の変」を慈円はこう見た。第37回放送「オンベレブンビンバ」予習 (7/8ページ)

Japaaan

※『愚管抄』第六巻より

これでも源氏の端くれ。奮戦する平賀朝雅(イメージ)

【意訳】時政夫婦が片付いたら、今度は京都の朝雅。御家人たちに朝雅追討を命じ、後鳥羽上皇には院宣を求めた。
さっそく六角東洞院の平賀邸は包囲され、朝雅もしばし意地を見せたものの衆寡敵せず。館に火をかけて大津方面へ逃亡するも、あえて一方だけあけて誘導されていたのである。
追撃を受けた朝雅は山科の辺りで自害。その首級は伯耆国(現:鳥取県西部)の守護職・金持ナニガシが獲って後鳥羽上皇のご覧に入れた。

「ほう……それが平賀とやらの首か」

上皇陛下は御車の中からチラリと覗き見られたとか。時に元久2年(1205年)閏7月26日であった。

(ふん、しくじりおって……役立たずが)

じっさい後鳥羽上皇がそう思ったかはともかく、汚らわしいものを見る目をしていたであろうことは想像に難くありません。

果たして幕切れとなった「牧氏の変」。朝廷が黒幕だったのか否か、その辺りのアレンジが次回の見どころとなりそうです。

終わりに

以上『愚管抄』より慈円の視点から見た「牧氏の変」を紹介しました。

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