「鎌倉殿の13人」時政・りくの謀叛計画「牧氏の変」を慈円はこう見た。第37回放送「オンベレブンビンバ」予習 (6/8ページ)
京都でも彼こそ「尼御台が頼りにする鎌倉でも屈指の策士」と認識されていたようです。
「平六殿、お知恵を貸して下さい」
「……お任せあれ」
義村は義時の館にみんなを集め、一芝居を打ちました。
「これより謀叛人を討つ……此度は、執権殿に指揮を執っていただかねば収まりませぬ」
「そうか?ならば人肌脱ぐとするかのぅ……」
久しぶりに存在感を示せる喜びか、時政は意気揚々と鎌倉を出立、どんどん西へ進みます。
「ところで、謀叛人とは……」
「もうお気づきでしょう。執権殿ご自身ですよ」
「……何だと!」
気づけば周囲の御家人たちに取り押さえられ、あれよあれよと故郷の伊豆北条まで送られてしまった時政。
「おのれ、謀ったな!」
「命までは奪りませぬ。どうか、穏やかな余生をお過ごし下され」
「何をバカな、おい小四郎!」
「父上……今までご苦労様でした」
かくしてまんまと鎌倉より追放された時政。『愚管抄』ではりくに関する言及はないものの、ほどなく時政の元へ送られたのでしょう。
平賀朝雅の最期さて京に朝政(朝雅)があるを、京にある武士どもに討てと云仰せて此由を院奏してけり。
京に六角東洞院に家つくりて居たりける。武士ひしと巻て攻めければ、しばしは闘いて終に家に火かけ、打出て大津の方へ落ちにけり。わざと後ろをばあけて落とさんとしけるなるべし。
山科にて追武士どもありければ、自害して死にける首を、伯耆國守護武士にて金持(かなもち)と云者ありける。取てもて参りたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞へき。これは元久二年後七月廿六日(閏7月26日)の事なり。