「どうする家康」上洛なんかしている場合か!?第13回放送「家康、都へゆく」振り返り (5/9ページ)

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本当は武士としても優れていた茶屋四郎次郎(イメージ)

茶屋四郎次郎とは屋号で、本名は中島清延(なかじま きよのぶ)。父の中島明延(あきのぶ)は信濃守護の小笠原長時(おがさわら ながとき)に仕えていましたが、主家の滅亡がキッカケで武士を廃業、京都で呉服商を始めたのが始まりです。

呉服商がなぜ茶屋になったのかと言うと、第13代室町将軍・足利義輝(あしかが よしてる。足利義昭の兄)が彼の屋敷へしばしば茶を呑みに来たからとのこと。別にお茶を商っていた訳ではありません。

劇中では武士の素質がないと言われた清延ですが、若い頃は家康に仕えて三方ヶ原の合戦(元亀3・1572年12月22日)などで武功を立て、橘の家紋を賜わったとされています。

後に本能寺の変(天正10・1582年6月2日)で信長が横死した際、堺にいた家康の元へ駆けつけて本国への脱出(神君伊賀越え)を支援。この功績により、徳川家御用商人としての地位を確立するのでした。

そして慶長元年(1596年)閏7月27日に52歳で世を去った清延。その後も茶屋四郎次郎の屋号は襲名、後世へと受け継がれていきます。

茶屋四郎次郎とコンフェイト(金平糖)

ちなみに家康が茶屋四郎次郎にコンフェイト(金平糖、confeito)を求めたエピソードもフィクションです。

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