織田信雄(信長次男・浜野謙太)が惨敗!天正伊賀の乱「阿波口の合戦」を紹介【どうする家康】 (8/9ページ)
出陣時に威容を誇っていた名馬も甲冑もかなぐり捨てて、本陣にたどり着いたのは深夜だったということです。
……信雄方の名を得たる勇士より、雑人原に至るまで、其の人数を討るゝ事、幾千人といふ数を知ら寿”、残り少なく討たれ果てける、猶又其の身の辛労堪え難く、九月十八日といふに、討ち漏らされし、僅少の敗兵を引き具して、松ガ島に引き退き給ひし事、口惜かりし次第奈り、其の上世上にての風説悪舌、とりどりなりしとぞ聞えし。
※『伊乱記』巻之二「信雄卿阿波口合戦の事」
【意訳】かくして惨敗を喫した信雄。名だたる勇士らをはじめ、雑人原(ぞうにんばら。~輩、名もなき兵士など)にいたるまで数千人以上が討たれてしまいました。
すっかり面目を失った信雄は、わずかな生き残りを掻き集めてトボトボと引き揚げていき、世の人々に笑われたということです。
それにしても、土地勘のない敵地からボロボロになっても生き延びたのは、確かに生存本能が優れていたと言えるでしょう。
信長激怒!親子の縁を切られる?
九月十七日 北畠中将信雄 伊賀国へ御人数被差越御成敗の處尓一戦柘植三郎左衛門討死候也
※『信長公記』巻之十二(天正七年己卯) (十)北畠中将御折檻状之事
【意訳】9月17日、信雄が伊賀国へ攻め込んだが敗れ、柘植三郎左衛門(つげ さぶろうざゑもん。柘植保重)を討死させてしまった。