「どうする家康」猿に続いて、白兎まで女狐の毒牙に!?第38回放送「唐入り」振り返り (2/11ページ)
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※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」
秀吉の野望にしょうがなくつき合って名護屋城へ詰め、何やかんやで矢の如く年月は流れて気づけば文禄4年(1595年)に……そんな認識だったようです。これが家康=徳川家から見た朝鮮出兵の公式見解と言えるでしょう。
じっさい家康たちは朝鮮へ渡っていませんし、今一つ緊張感に欠けるのは無理もありません。
しかし前線では苦しい戦いが続いており、その実情は石田三成(中村七之助)が握りつぶすという残念な状態。
「今まで殿下のなさることに間違いはなかった」
うーん、どうやら今回の三成ガチャはハズレみたいです。そんな人物を重用して政権の舵取りを託している秀吉……いよいよ焼きが回ったのでしょうか。
『徳川実紀』では、こうも書いています。
……(秀吉足利氏衰乱の余をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が強悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうやく一統し万民やゝ寝食を安んぜむとするに及び。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる説々あれども。實は此人百戦百勝の雄略ありといへども。垂拱無為の化を致す徳なく。兵を窮め武を黷(けが)し。終に我邦百万の生霊をして異賊の矢刃になやませ。其はてハ富強の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して国力を虚耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ国亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め身後の虚名を求めんとして。終には身に益なく国に害を残すもの少なからず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」
秀吉は戦国乱世に生まれ、織田信長の仇討ちを果たして天下取りに名乗りを上げました。西は島津を従えて、東の北条は滅ぼして、天下一統の大業を成し遂げます。
これでようやく平和に暮らせると思っていたら、今度は唐入りなどと言い出す始末。