【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】 (2/9ページ)
……此時元忠家臣濱島無手右衛門をして関東へ、上方蜂起の由を注進す。時に子息忠政に遺誡を申贈る、……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】時は慶長5年(1600年)7月。伏見城に立て籠もっていた元忠は、石田三成ら上方勢が挙兵したことを家康に伝えるため、家臣の濱島無手右衛門(はましま むてゑもん)を関東へ派遣しました。それと同時に、息子の鳥居忠政に遺言を申し送ります。
ちょっと(いや結構かなり)長いので、原文を分割で意訳していきましょう。
敵が何十万で包囲しようと、突破するのは容易いが…………其辞に、今度上方の大小名数多石田が奸計に陥て尽く蜂起し、先づ當城を攻落さんとの聞えあり、我等に於ては城を枕に討死すべき覚悟なり、大阪(※原文ママ)勢何十萬騎にて攻寄せ、千重に圍むと雖も一方を打破て退んに手間取るべからず、夫は武士の本意にあらず、忠節とは言難し、我爰にて天下の勢を引受け、百分一にも対し難き人数を以て防ぎ戦ひ、目覚敷討死して、徳川の御家風を守る所の城を明け、難を遁れ命を惜み、敵に弱みを見せぬ者ぞと、御家人衆にも覚悟させ、天下の士に義を進むる手始とならんと存ずるなり、……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】こたび上方の者たちが石田治部めにそそのかされて兵を興し、真っ先にこの伏見城を攻め落とそうとしておる。わしらは城を枕に討死する覚悟じゃ。
大坂の連中が何十万という大軍でどれほど厳重に包囲したところで、その気になれば突破脱出するなどたやすいこと。しかしそれは武士の本意ではなく、主君へ忠節を尽くしたとは言えぬ。
わしらはここで天下の大軍を食い止めるため、百分の一にも満たぬ人数で死ぬまで戦うまで。目覚ましき武勇をもって徳川の御家風を示すのじゃ。
間違っても数で脅されて敵に城を明け渡すような腰抜けは一人もおらぬと、徳川家中は元より天下の心ある者たちに率先垂範せんと思っておる。