政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】 (3/13ページ)
孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』wikipedia
そして1614年8月、方広寺鐘銘事件が起こります。この事件は、方広寺大仏の大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文に、家康が難癖をつけたことが注目されますが、事の発端はそれだけではありませんでした。
方広寺で大仏開眼供養会の実施が決定すると、南光坊天海が供養会で天台宗の僧侶を上座の左班とするよう豊臣方に申し入れ、家康は大仏の開眼供養と堂供養を同時に行うことに難色を示します。
これに対し、豊臣家宿老の片桐且元は駿府城に赴き、開眼供養と堂供養を午前と午後に分けて実施することを家康に提案しました。しかし、金地院崇伝は家康の意向を踏まえ、2日に分けるべきだと主張します。