政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】 (8/13ページ)

Japaaan

これにより、大坂城は本丸のみが残る“裸城”となり、難攻不落といわれた惣構や堀などの防御機能は全て失われたのです。

常高院(初) wikipedia

なぜ秀頼や淀殿は、自滅行為ともいえる城の破壊を容易に受け入れたのでしょうか。一つの説として、内堀の埋め立てを豊臣側で行うという条件を結び、工事を意図的に遅らせて時間を稼ごうとした可能性が指摘されています。

この間に、高齢の家康の死や、豊臣恩顧の大名たちの支援を期待していたと考えられ、また、講和を結んだ以上、関白家である豊臣氏に家康や秀忠が手出しできないだろうという楽観的な見通しもあったのではないでしょうか。

これらは、秀吉の威光を忘れられない淀殿を中心とする豊臣側の思考を反映しているといえます。しかし、徳川方はこの意図を見抜き、諸大名に命じて一気に堀の埋め立てを完了させてしまいました。

いずれにせよ、豊臣方の認識はあまりにも楽観的だったといえるでしょう。これにつけ込むように、徳川幕府は秀頼に対し大和または伊勢への移封を要求します。豊臣方は4月5日、大野治長を駿府に派遣し、秀頼の移封免除を嘆願しますが、すでに家康は3月末に諸大名へ動員令を発していました。

このように、どのような努力を重ねても、徳川と豊臣両家の関係は修復不可能でした。23歳になった秀頼は、豊臣家の威信をかけ徳川と戦う姿勢を強め、大坂城の修築、牢人の呼び戻しなどを進めます。

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