実は“カネの亡者”だった戦国武将・明智光秀──人望を金銭で補おうとした資金調達係の末路 (1/6ページ)
金のためなら皆殺し
明智光秀は、知名度の高さとは裏腹に謎の多い人物です。家系、生年、さらに織田信長に仕えるまでの経歴さえ確定しておらず、本能寺の変の動機もいまだに議論が続いています。
とはいえ、信長が光秀を高く評価していたことだけは史料からも明らかです。そしてその理由は、つまるところ光秀の資金調達力が家中随一だったからに他なりません。
戦国大名は、戦をするにも莫大な金が必要でした。すなわち領国の統治とは経営そのものであり、信長もまた常に膨大な資金を必要としていました。その期待に応えたのが光秀だったのです。
ただし光秀のやり方は、上には従順で下には苛烈という、現代でいえばブラック企業の中間管理職のようなものでした。
例えば丹波亀山城の築城では、作業員110人への支給米が相場より25%も少なかったことが記録に残っています。
信長に気に入られるために、自分の配下からは容赦なく搾取するというのが光秀の実像だったのです。
光秀は、創作では清廉な人物像になりがちで、それが信長の理不尽さ・傍若無人ぶりと対比されるのが常です。しかし史実の彼は、金のためなら手段を選ばない現実主義者でした。
その姿勢は、かの延暦寺焼き討ちでも顕著に表れています。