【豊臣兄弟!】三成を“お姫様抱っこ”の藤堂高虎!史実でも主君を惹きつける超愛され武将だった (6/10ページ)
その後紀州征伐でも大勝利をおさめ、戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられるとともに、猿岡山城、和歌山城の築城の際には普請奉行に任命されました。
作業動員数は約1万人ほどのリーダーとなったのです。これは、「築城の名手」と呼ばれる高虎の初期の仕事といわれています。高虎はなぜ築城に興味を持ち、技術は誰からどう学んでいったのか……はよくわかりません。持って生まれし“ギフト“だったのか、向上心や努力の人だったのか。
和歌山城は当時の建物は現存していないものの、『和歌山城公園』として整備され多くの人が訪れる人気スポットとなっています。
図面を書き直し自腹で追加工事をする
天正14年(1586)、高虎のずば抜けた建築の才能を認めていた秀長は、聚楽第の邸内に、上洛する徳川家康をもてなす屋敷を作るため『作事奉行』に任命します。
その際に、関白となった秀吉が自ら設計した図面を渡しました。設計そのものが間違っていたわけではないのですが、高虎は、屋敷が公家風の華奢な構造だったために警備上「危うい」と気がつきます。
脆弱な箇所を強化するために、屋敷の周囲に外構えと外門の設置を考えたものの、それでは追加費用がかかってしまいます。もし、そんなことを申し出たら秀吉の不興を買い、秀長にも迷惑がかかると悩み、高虎は費用は自己負担しようと決め、設計図を書き直し工事を進めました。