『豊臣兄弟!』近づく半兵衛(菅田将暉)の最期、黒田官兵衛(倉悠貴)との熱い絆…天才軍師「両兵衛」を比較 (6/11ページ)
農民たちは、鳥取城に納めるはずの米や備蓄米まで売り払ってしまいます。
これが、非情なまでの兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」となりました。一説では人肉を喰らうものが出るほどの凄惨な状況となり、4ヶ月ほどで鳥取城は明け渡されたのでした。
・天正10年(1582年)「水攻め」
備中高松城(現在の岡山県)攻略の際には、地形を見て「水攻め」が適切だと判断した官兵衛は秀吉に進言。金銭や米と引き換えに、築城を得意にする建築者や周辺の農民を雇い、城近くを流れる足守川に堤防を築きます。降り続いた雨の助けもあり川は増水。水は城の周りに引き入れられ、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化したのでした。
毛利軍が駆け付けるも救援できる状況ではなく、城内の兵糧も尽き兵士達の疲労も極限状態。降伏を待つばかりの状況へと追い込んだのでした。
秀吉(右)と黒田官兵衛(左)。歌川 豊宣public domain
竹中半兵衛と黒田官兵衛、人間性は ▪️半兵衛の人間力エピソード天正6年(1578)、中国攻めのときのこと。毛利側に寝返った信長の家臣・荒木村重を説得するため、黒田官兵衛は、単身、村重の居城・有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込みます。
けれども、捉えられて幽閉されてしまいました。戻らない官兵衛に裏切ったかと怒った信長は、人質だった官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じます。
それに反対したのが竹中半兵衛でした。