【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗 (9/11ページ)

Japaaan

「三介殿(信雄)のなさることだから」と、周囲に言われてしまうような感じだったとも伝わる信雄…。

清洲会議後には、信雄は秀吉と手を組みます。

そして、天正10年の『賤ヶ岳の戦い』と翌年の春の挙兵で秀吉に負けた信孝。

信雄は、信孝に尾張に引くように甘言し、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺に落ち延びたところで、家臣に切腹を勧めさせて自害に追い込んだのです。

そして、信雄は正式な織田家の後継者となったものの、秀吉にとっては邪魔な存在になり、安土城を退去させられてしまうのでした。

天正12年(1584)、信雄は秀吉との関係を断ち、徳川家康と手を組みます。

本格的に秀吉と敵対関係になった信雄は小牧・長久手の戦いなどを経て、今度は同年の11月に家康に協議することなく単独で秀吉と講和しました。

天正18年(1590)の秀吉VS北条氏の小田原征伐では、15000もの兵を引き入れ出陣するなど、積極的に豊臣政権下での軍事活動に傘下した信雄。

けれども、秀吉から徳川家康の旧領への転封を命じられますが、信雄は「動きたくない」とこれを拒否したため改易。下野国の烏山へ流されます。

1591年、信雄は伊予道後の石手寺に入って出家し、常真(じょうしん)と名乗るようになりました。

その後、家康の口利きで信雄は赦免され、秀吉の『相伴衆』(宴席などに相伴役として伺候した者)となりそれなりの待遇を受けるように。

けれども、豊臣家に忠誠など誓う気持ちはなかったのでしょうか。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは家康に有利になる情報を提供、慶長19年(1614)の大阪の陣では、秀吉の子秀頼から味方になるように頼まれるも断っています。

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