戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち (4/12ページ)

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さらに外部から柳之丸へ兵を引き入れます。瞬く間に柳之丸は、信秀の手に落ちました。

氏豊は落城後、信秀に命乞いをしています。信秀は氏豊の命を取ることはしませんでした。氏豊はその後京へと逃げて行ったと伝わります。

その後、信秀は奪った柳之丸の名前を「那古野城」と改めました。那古野城に居城を移転すると、愛知郡へ勢力を広げていきます。

織田信秀像(出典:ウィキペディア)

名古屋城前史 後に天下人となる武将はおおうつけ!? わずか二歳で城主となった織田信長

天文3(1534)年、織田信長は織田信秀の嫡男として生を受けました。母は土田政久の娘・土田御前です。幼名は吉法師と名乗っています。

通説では那古野城で誕生したことになっています。しかしまだ奪取する前であるため、勝幡城で誕生した説が正しいようです。

天文5(1536)年、信秀は古渡城に居城を移し、信長に那古野城を譲ります。信長がわずか二歳の時でした。以来、信長はこの城で養育されていきます。

幼少時の信長は、那古野城から凌雲寺や熱田の滝之寺へ手習いに通い、庄内川の河原を主な遊び場としていました。

『信長公記』には「十五、十六歳の頃まで朝夕に馬術の稽古を氏、川で睡蓮。家来たちには竹槍で仕合をさせていた」と書かれています。

信長には奇抜な行動が目立つようになり、周囲からは「大うつけ」と噂れていました。しかしその独特の価値観が、のちに新時代の扉を開いたようです。

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