戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち (7/12ページ)
弘治元(1556)年、那古野城の城主・織田信光が家臣に討たれる事件が起こります。これを受けて、秀貞が那古野城に城代(留守居役)として入城しました。
この一件に関しては、秀貞が信光の死に関わった可能性があります。どの道、一番家老である秀貞が家中の勢力争いにも深く寄与していたことは間違いありません。
しかし秀貞は、信長に一途に付き従っていたわけではありません。弘治2(1557)年には、秀貞は家督相続後の信長に反旗を翻しています。織田家重臣の柴田勝家らと織田信勝(信長の同母弟)を擁立しての挙兵でした。しかし稲生の戦いで信長に敗れています。
敗戦後は信長に許され、変わらず織田家に出仕しています。那古野城の留守居も解かれず、同城に止まっていた可能性があります。
永禄3(1560)年には、秀貞は織田家と徳川家の清須同盟の立会人も務めるなど、外交方面において多大な貢献をしています。
秀貞の武将として出陣した記録は、播磨国の神吉城攻めなどわずかしか残されていません。秀貞は、軍事よりも政治家という面で信長を補佐していたようです。
現に天正3(1575)年には、家督を継いだ織田信忠(信長の嫡男)に付けられています。天正7(1579)年の安土城の天主完成の折には、秀貞と京都所司代・村井貞勝だけが見物を許されています。
信長の信任はかなり厚く、家臣団の筆頭的位置にあったと推察できます。
しかし天正8(1580)年、秀貞の運命は一変します。信長から過去の信勝擁立の件を責められ、家中追放となりました。
秀貞は戦国時代の那古野城の最後の城主でした。秀貞を最後として、那古野城は廃城となります。