実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】 (4/9ページ)
あんまりキツく言いたくなかったのかも知れません)
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腰の箙(えびら。矢を収めるケース)に梅の枝を挿して戦う風流な景季。歌川国芳筆
ちょっとそそっかしいところもあるものの、父譲りの才覚で文武両道を兼ね備えていた景季は、文治5年(1189年)の奥州征伐で頼朝に和歌を献上。一同を感心させました。
秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
【意訳】あなた(頼朝)がゆかれる喜びに秋風が草木の露を吹き払い、御裾を濡らすようなことはないでしょう(≒敵はあなたの威光を恐れ、大した抵抗もできないでしょう)。
その後も父子ともども頼朝の側近として活躍。将来を嘱望されていましたが……。
兄とは対照的な熱血タイプの次男・梶原景高永万元年(1165年)生まれ、通称は平次。頼朝挙兵時点で16歳なので、父や兄に従って出陣しているものと思われます。
血気盛んな性格で、平家討伐の一ノ谷合戦(寿永3・1184年2月7日)では、抜け駆けせぬよう父からきつく窘められていたのにも関わらず単騎で抜け駆け。