実は子だくさん!汚れ役もいとわない愚直すぎる武将・梶原景時の息子たち・前編【鎌倉殿の13人】 (8/9ページ)
盛大にフラれてしまった景茂は、仲間たちと共に引き上げていきました。いくら謀叛人の愛妾とは言え、やって良いことと悪いことがあるというもの。
……景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。々頗落涙云……
【意訳】景茂は盃を傾け、少し酔い過ぎてしまった。その勢い余って静御前を口説いた(艶言を通じた)ものの、彼女に泣かれてしまったのであった。
※『吾妻鏡』文治2年(1186年)5月14日条
まずは気の利いた歌でも送ることから始めればよかったのに……まぁ気を取り直して。
景茂は奥州合戦で武功を立てたことにより、建久元年(1190年)に左兵衛尉(さひょうゑのじょう)となりました。これは頼朝の推挙によるものですから、兄たちのように叱られはしません。
次兄・景高にもまして失態のインパクトが強い景茂。しかし後に弾劾を受けて鎌倉を退去した景時が、万一に備えて鎌倉の留守を任せたのも彼でした(正治元・1199年11月13日条)。
御家人たちからの弾劾状に恐れをなしたか、さんざん利用しておきながら、景時の梯子を外してしまった頼家。
「お前の父(景時)のせいでみんな怒っているぞ。