「鎌倉殿の13人」尼将軍・政子の伝説が幕開け!第46回放送「将軍になった女」予習 (10/11ページ)
しかしいくらただ者ではないと言っても、さすがに2歳では政治などできませんから、政子が後見することになります。
霽。左大臣〔道家公〕賢息〔二歳。母公經卿女。建保六年正月十六日寅刻誕生〕下向關東。是故前右大將後室禪尼重將軍舊好之故。爲繼其後嗣依申請之。去月三日可有下向之由 宣下……今日午尅。入鎌倉。着于右京權大夫義時朝臣大倉亭……酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽断理非於簾中云々。
※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月19日条
【意訳】晴れ。九条道家の御賢息・三寅が鎌倉へ到着された。これは政子(故前右大将後室禅尼)が特に源氏の血筋を引く方を求められたためで、6月3日にお許しを頂いたためである。
到着は正午ごろ、義時(右京権大夫)の大倉邸に入られた。午後6:00ごろに政所始の儀式が行われ、三寅ぎみが幼い内は政子(二品禅尼)が代わりに御簾(みす。すだれ)の中から後見されることとなったという。
女性は男性(臣下)と直接対面してはならないため、すだれを垂らした奥で三寅(およびその乳母)と政務に臨みました。
こうした幼君を女性が後見する政治体制を垂簾聴政(すいれんちょうせい)などと言います。
終わりにかくして第4代鎌倉殿がやってきましたが、これでめでたしめでたしではありません。
霽。酉尅。伊賀太郎左衛門尉光季使者自京都到着。申云。去十三日未刻。誅右馬權頭頼茂朝臣。虜子息下野守頼氏訖。折節若君御下向之間。故止飛脚。于今不啓子細云々。頼茂依背 叡慮。遣官軍於彼在所昭陽舎〔頼茂守護大内間。住此所〕合戰。頼茂并伴類右近將監藤近仲。右兵衛尉源貯。前刑部丞平頼國等。入籠仁壽殿自殺。放火郭内殿舎以下。仁壽殿觀音像。 應神天皇御輿。及大嘗會御即位藏人方往代御裝束靈物等。悉以爲灰燼。朔平門。神祗官。々外記廳。陰陽寮。園韓神等免其災云々。
※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月25日条
京都から伊賀光季の使者が到着しました。
「申し上げます。7月13日に朝廷の内裏で源頼茂(みなもとの よりもち。