日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】 (4/11ページ)

Japaaan

ただ、どこか控えめな印象を受ける比賣神社は、のちに弘文天皇の漢風諡号を贈られ第39代天皇とされた大友皇子の正妃でありながら、歴史の狭間に消えていった十市の奥津城として、ふさわしい場所であると訪れるたびに筆者は感じてしまうのです。

高市皇子の墳墓と推定するマルコ山古墳

一方、高市皇子は、十市皇女が亡くなってから18年後の696年(持統天皇10年)に薨去しました。この間、高市皇子にはさまざまな出来事が起こっています。

まず、679年(天武天皇8年)5月6日には、天武天皇主導のもとで「吉野の盟約」として知られる重要な儀式が行われました。これは、天武天皇をはじめ、皇后(鸕野讃良皇女)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子らが吉野の宮滝に集い、互いに助け合うことを誓い合ったものです。この盟約によって、草壁・大津・高市の三皇子による皇位継承の序列が確定したとされています。

吉野盟約が行われた宮滝(撮影:高野晃彰)

「吉野の盟約」は、壬申の乱を経験した天武が、自らの死後に皇位継承をめぐる争いが再び起こることを恐れたために行われたと解釈されています。しかし実際には、天武朝の政治において重要な役割を果たしつつあった皇后・鸕野讃良の意向が大きく働いていたと考えるのが妥当でしょう。すなわち、彼女は天武が生前のうちに、自らが産んだ草壁皇子の皇太子としての地位を確固たるものにしようと画策していたのです。

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