日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】 (6/11ページ)

Japaaan

藤原京大極殿跡(Wikipedia)

高市はそのような持統の期待によく応え、皇位への執着をみせることなく政務に励みました。彼は、明日香浄御原令の制定や藤原京の造営などの事業において中心人物として功績を重ねていきました。しかし、696年(持統天皇10年)に42歳で亡くなります。

彼の死後、すでに50歳を超えていた持統の後継問題が、皇族や官人たちの間で議論されました。このとき、葛野王が草壁皇子の直系による継承の正当性を述べ、その発言が決め手となり、翌年に軽皇子が皇太子となったと記録に残っています。この葛野王こそが、十市皇女と大友皇子の一人息子でした。

葛野王(Wikipedia)

おそらく高市は十市の薨御後、何かと葛野王のことを気にかけていたに違いありません。

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