日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】 (10/11ページ)
草壁皇子は皇太子の地位で薨御しましたが、実質上は天皇と見なされ八角形墳に葬られました。これは間違いなく、持統天皇の強い意思の表われでしょう。
そして、マルコ山古墳が天皇墓の八角形に準じる六角形をなすのは、持統による被葬者への評価がこの墳形に反映しているものとも想定されます。
そうなると草壁が永眠する束明神古墳の北に築造されたマルコ山古墳は、持統の期待によく応え、その政権に貢献した高市皇子の奥津城と推定できるのです。
マルコ山古墳から発見された人骨は30~40歳の壮年男子と推測されます。これは高市の没年齢42歳とほぼ一致します。
また、マルコ山古墳の漆喰で白く塗られた石室には、高松塚やキトラのような壁画は描かれていませんでした。なぜ、マルコ山にだけ壁画が描かれなかったのは謎とされています。