日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】 (5/11ページ)
686(天武15)年、天武天皇が崩御すると、まもなく皇位継承2番目であった大津皇子が謀反の嫌疑で死に追いやられます。ところがその3年後に、今度は草壁皇子が病気により薨去してしまいました。
草壁は、天武の2年3ヶ月にもわたる殯(もがり)の期間、たびたび皇族・官人を率いて一連の葬礼を指揮し、着々と皇位にむけてその存在を印象付けていたのです。草壁の死に鸕野讃良は嘆き悲しんだに違いありません。彼女は、草壁の子である軽皇子(文武天皇)の皇位継承を望みますが、7歳と幼かった軽を皇太子に立てることはできませんでした。
そこで、皇后は天皇に即位して持統天皇となり、孫の軽が皇太子となれる年齢に達するのを待ったのです。このとき、その中継ぎとして高市を皇太子待遇の太政大臣に任じ、幼い軽の後見をさせたと筆者は考えます。