徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (2/12ページ)
これは、「比興=卑怯」ではなく、主君・武田氏滅亡後、小大名の真田家を独立大名として維持してきた「狡猾で策略に長けた人物」という意味での称賛だった。
ちなみに家康は昌幸を「稀代の横着者(悪賢い者)」と嫌忌し、『三河後風土記』では「生得危険な姦人(腹黒く悪賢い人物)」と畏怖したという。
川中島百勇将戦之内「拾六才初陣真田喜兵衛昌幸・歌川国芳作」(Wikipedia)
こうした経緯もあってか、1585(天正13)年には、上杉景勝のもとにいた次男・信繁が、豊臣家の人質として大坂に出仕し、昌幸も豊臣家に臣従することとなる。秀吉は信繁をたいそう気に入り、小姓として側に置いたうえ、豊臣姓を名乗ることを許した。
また、信繁はこの大坂で大きな成果を得た。それは秀吉の寵臣・大谷吉継の娘を妻に迎えたことであった。