徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (6/12ページ)

Japaaan

名護屋城(佐賀県立名護屋城博物館)

この「朝鮮出兵」は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年にかけて、2度にわたって遠征軍を朝鮮半島に送り込んだもので「文禄・慶長の役」とも呼ばれている。しかし、昌幸は渡海軍には加わらず、秀吉直属の旗本衆として本陣を固めるにとどまった。

そして、1598年(慶長3年)に秀吉が伏見城で死去すると、「朝鮮出兵」も終結することとなったのである。

第二次上田合戦でまたしても徳川の大軍を翻弄

秀吉の死により朝鮮出兵は幕を閉じたが、実はこの戦いが豊臣家に大きな禍根を残すこととなった。加藤清正・福島正則ら武断派と、石田三成・小西行長ら文治派との間で対立が生じたのである。

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