徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (5/12ページ)
昌幸は、越後の上杉景勝や加賀の前田利家を中心とする約3万5千の北陸支隊の一部として参陣し、信之・信繁もこれに従ったとされる。
北陸支隊は、信濃・上野の国境にあり北条方の重臣・大道寺政繁が城主を務める松井田城を攻略。さらに箕輪城、鉢形城、八王子城を次々と墜とし、小田原城を包囲する豊臣本隊と合流した。
小田原市に残る北条氏時代の小田原城遺構(Wikipedia)
そして開戦から約4か月後、北条氏政・氏直父子はついに降伏を決断。氏政らの自尽を条件に小田原城は開城し、ここに北条氏は事実上滅亡したのである。
北条氏を滅ぼし名実ともに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる目標として中国・明の征服を掲げた。1592(文禄元)年、秀吉は九州・福岡市郊外に侵攻軍の渡海拠点として名護屋城を築き、そこに総勢19万近い大軍を集結させた。