徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (7/12ページ)
石田三成出生地碑と三成像「滋賀県長浜市石田町」(Wikipedia)
この混乱に乗じて家康は大坂城西の丸に腰を据え、諸大名への加増や転封を独断で裁定するなどして、その権力を次第に強めていった。
こうした家康の動きに危機感を抱いた三成らは、家康が会津の「上杉景勝討伐」に出兵した隙を突いて挙兵する。これが関ヶ原の戦いであり、石田方を「西軍」、徳川方を「東軍」と称する。
石田三成出生地碑と三成像「滋賀県長浜市石田町」(Wikipedia)
この混乱に乗じて家康は大坂城西の丸に腰を据え、諸大名への加増や転封を独断で裁定するなどして、その権力を次第に強めていった。
こうした家康の動きに危機感を抱いた三成らは、家康が会津の「上杉景勝討伐」に出兵した隙を突いて挙兵する。これが関ヶ原の戦いであり、石田方を「西軍」、徳川方を「東軍」と称する。