徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (8/12ページ)

Japaaan

関ヶ原合戦図屏風「関ケ原町歴史民俗資料館」(Wikipedia)

この事態において真田父子は、昌幸と次男・信繁が西軍に、長男・信之は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)を正妻としていたことから東軍に属することとなった。昌幸と信繁が西軍についたのは、信繁の正室が大谷吉継の娘・竹林院であったからだ。

昌幸は信繁とともに急ぎ上田城に戻ると、中山道を西へ進軍してくる徳川秀忠率いる3万8千の大軍を、わずか5千の兵で迎え撃った。昌幸は上田城内で指揮を執り、城外の居館や寺院を砦として利用し、そこに伏兵を配置。また、外堀となる神川の水を堰き止めることで、徳川軍に備えた。

「徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、真田昌幸徳川家康戦国武将戦国時代豊臣秀吉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る