徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (3/12ページ)

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『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』落合芳幾画(Wikipedia)

翌1586(天正14)年、秀吉は京都における豊臣家の拠点として聚楽第を築城。ここで後陽成天皇を饗応し、徳川家康、織田信雄、毛利輝元ら有力大名との謁見を果たした。

この間、秀吉は四国の長宗我部氏や九州の島津氏を服従させるなど、着実に天下統一事業を進めていた。そして1589(天正17)年、ついに関東の雄・北条氏に対し宣戦を布告する。

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