徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (10/12ページ)

Japaaan

上田城防御の砦であった大輪寺(撮影:高野晃彰)

「第一次上田合戦」に続き、昌幸はまたしても徳川の大軍を撃破し、その知将としての名を天下に知らしめたのである。

関ケ原の敗戦で九度山配流。そこで生涯を閉じる

上田城で秀忠の大軍を翻弄した昌幸であったが、結局、関ヶ原の戦いは東軍が勝利した。

西軍の主だった将たちは家康によって処罰され、昌幸・信繁父子もその対象となった。石田三成や小西行長は処刑されたが、昌幸父子は信之の懸命な助命嘆願により、死一等を減じられ、高野山山麓の九度山に蟄居を命じられた。

昌幸が流された九度山(撮影:高野晃彰)

上田城を徳川方に接収され配流地に向かう際、昌幸は「さてもさても口惜しきかな。

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