これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】 (5/11ページ)
孝謙天皇の譲位の理由は、表向きには病を得た光明皇太后に仕えるためであった。しかしその背後には、光明皇太后の死後も仲麻呂が権力を保持するための布石であったことを、天皇自身も理解していたであろう。
だが仲麻呂にとって誤算だったのは、760年(天平宝字4年)7月に光明皇太后が崩御した後の孝謙上皇の変貌であった。
病に倒れた後、看病にあたった道鏡を寵愛孝謙上皇は、光明皇太后が亡くなると、まるで解き放たれたかのように、自由な振る舞いを見せるようになった。
天皇と上皇のどちらの権力が強いかといえば、儒教的な概念が浸透していた日本においては、言うまでもなく上皇である。母・光明子の絶大な権力を引き継いだ孝謙上皇が、自らの権力に目覚めたのは、自然の成り行きであったろう。
しかし、そのことが、やがて上皇と仲麻呂、そして淳仁天皇との関係を徐々に微妙なものとしていったのである。
光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇は淳仁天皇を伴い、飛鳥の小治田宮から近江の保良宮へ行幸した。しかし、その地で上皇は光明皇太后崩御の心労も重なったのか、病に倒れてしまう。