これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】 (8/11ページ)
765年(天平神護元年)10月、脱出を試みたが連れ戻され、翌日に崩御した。死因については、孝謙上皇の命による暗殺であったとする説が有力である。
淳仁天皇を廃位に追いやった孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となった。以後、天皇と道鏡による政権運営が6年間続いたが、天皇は皇太子を立てることはなかった。
その間も天皇の道鏡への寵愛は深まるばかりで、ついに766年(天平神護2年)、僧として最高位にあたる法王の称号を与えた。「法王」は国を治める王を意味すると解される場合もあり、称徳天皇が道鏡をいかに信頼していたかがうかがえる。
そして、769年(神護景雲3年)、九州・大宰府から「道鏡を天皇に立てれば天下は泰平になる」との神託がもたらされた。これを大いに喜んだ称徳天皇は、神託の真偽を確かめるため、和気清麻呂を宇佐神宮に派遣した。天皇も道鏡も、清麻呂が「神託は本物である」と報告すると考えていた。