これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】 (9/11ページ)
しかし、都に戻った清麻呂は「天つ日嗣は必ず皇族を立てよ」との神託を上申した。これに激怒した天皇は、清麻呂の名を「穢麻呂(きたなまろ)」と改め、大隅国に配流してしまった。
それから1年後の770年(神護景雲4年)3月、称徳天皇は再び発病した。だが今回は、その看病のために道鏡は呼ばれなかった。ここから道鏡の権力は急速に衰えていく。
天皇が病に臥す事態となり、政治の実権は藤原永手や吉備真備らを中心とする太政官に戻った。そして同年8月、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。享年53歳だった。
その後、皇統は天智天皇系の白壁王が継ぎ、第49代光仁天皇として即位したのである。
道鏡の登用は仏教政治を推進するため孝謙(称徳)天皇が寵愛する道鏡を天皇に立てようと画策した理由については、諸説がある。その多くは、天皇と道鏡が愛人関係にあり、独身であった女帝が道鏡との情欲に溺れた結果の行動であったとするものである。
しかし、それは果たして真実であろうか。もし天皇に道鏡の子が宿るような事態となれば、男系継承を原則とする皇統にとって容易ならぬ問題となる。その程度のことを孝謙天皇がわきまえないはずがないと考えるのが自然であろう。
しかも、道鏡は僧侶であった。当時の仏教においては、出家して厳しい修行に専念することが本分とされていた。