これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】 (7/11ページ)

Japaaan

平城京大極殿(Wikipedia)

しかし、このような上皇の動きを見た淳仁天皇が諫言を述べたことから、両者の関係は悪化した。

やがて764年(天平宝字8年)9月、朝廷の最高権力者である太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が、孝謙上皇を排除しようと企てた。これがいわゆる「藤原仲麻呂の乱」である。

仲麻呂は上皇のスキャンダルを口実としたが、先手を打った上皇は吉備真備を中心に仲麻呂追討軍を組織し、わずか7日間で反乱を鎮圧した。仲麻呂をはじめ、その一族はことごとく誅殺された。

吉備真備(Wikipedia)

同時に、孝謙上皇は淳仁天皇を仲麻呂の共犯とみなして廃位し、淡路国に配流した。廃位後の淳仁天皇は「淡路廃帝」と称され、配流先でも上皇の監視を受け続けた。

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