これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】 (4/11ページ)
皇太后は多くの同族の中からとくに仲麻呂を引き立て、皇后の家政機関である皇后宮職を「紫微中台」と改め、大納言に任じられたばかりの仲麻呂をその長官・紫微令に就けた。
この紫微中台を構成する役人の数や官位の高さは太政官に匹敵し、やがて孝謙天皇に代わって国政を執行する機関となった。すなわち、光明皇太后と藤原仲麻呂による独裁的な政治が展開されたのである。
この期間中には橘諸兄が失脚し、諸兄の子で皇太后の甥にあたる橘奈良麻呂の乱が起こった。仲麻呂は、事を穏便に収めるよう命じた皇太后の意向を無視するかのように、反仲麻呂勢力を徹底的に粛清した。
そして、758年(天平宝字2年)、皇太后が体調を崩すと、天武天皇の皇子・舎人親王の七男である大炊王が即位し、孝謙天皇は太上天皇(上皇)となった。これが第47代・淳仁天皇である。淳仁天皇の妃は粟田諸姉で、彼女は早世した長男・藤原真従の夫人であった。その関係から、大炊王は藤原仲麻呂の邸宅で暮らしていたと伝えられる。