『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!光秀を謀反へ走らせた家康共謀説・四国説・武田内通説 (7/13ページ)

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ところがその説得が進展しないと判断した信長は、三男の織田信孝(結木滉星)を総大将に長宗我部征伐を兼ねた四国への出兵を決定します。そして遠征軍が四国に向けて渡海する前日の1582年(天正10年)6月3日、「本能寺の変」は起きました

元親との折衝を重ねるなかで、光秀の胸中にも信長への不信感が募っていったと考えることは十分可能です。それが「本能寺の変」の背景に、四国政策の転換があったとする「四国説」の根拠となっているのです。

武田氏との密約はあったのか?「武田内通説」の真相

「本能寺の変」の約10日後の1582年(天正10年)6月13日、大山崎において光秀と秀吉が激突する山崎の戦いが起きます。

結果は周知のとおり、明智軍の惨敗に終わり光秀は居城坂本に退く途中で、落ち武者狩りにあい自害して果てました。この戦いの後、明智軍の残党が細川家を頼っています。その一人に、利三の三男・斎藤利宗(としむね)がいました。

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