『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!光秀を謀反へ走らせた家康共謀説・四国説・武田内通説 (8/13ページ)
山崎の合戦に敗れ敗走する明智光秀。太平記屋間埼大合戦之図/歌川芳虎作(Wikipedia)
そもそも光秀と細川氏の縁は深く、光秀が流浪の境遇であったとき、室町幕臣だった細川藤孝(幽斎)に仕えていたという記録があります。光秀が信長に出仕すると藤孝も信長に仕え、光秀の娘・ガラシャが藤孝の嫡子・忠興に嫁ぎ、両家は縁戚関係で結ばれていたのです。
史学博士の磯田道史氏は、肥後熊本藩主の細川家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』には、利宗から聞き出した光秀謀反の理由が記されていると指摘します。
その内容は、「武田の一族である穴山梅雪が信長に降参した。その穴山の口から光秀の武田への内通が露見するのを恐れ、取り急ぎ謀反心を起こした」というものです。
これによれば、武田信玄存命中からであったのか、あるいは勝頼の代になってからなのか定かではないものの、光秀はかねてから武田氏と内通していたことになります。
ではなぜ、光秀が武田氏と誼を通じるようになったのでしょうか。