品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた (2/7ページ)

心に残る家族葬

更に明治期に国道一号(品川区西五反田〜神奈川県横浜市神奈川区までは「第二京浜」、「二国(にこく)」とも呼ばれる)が整備されてからは、品川地区で興隆した重工業を下支えする、家内制手工業を主とする機械・電気部品を製作する零細町工場(まちこうば)と、19世紀末のイギリスやアメリカで「規範」とされた「豊かな自然に恵まれた」郊外都市である「田園都市(Garden City)」の概念を取り入れ、渋沢栄一(1840〜1931)によって創設された田園都市株式会社を母体とする東京急行電鉄(通称・東急線)の目蒲(めかま)線(現・目黒線)、田園都市線(現・大井町線)、池上(いけがみ)線が開通し、それらの沿線に開発された新興住宅地や商店街が混在する「場所」となった。だが当時空襲で「狙われた」のは、皮肉にも、荏原区内に多く存在した、一見すると普通の民家にしか見えない小さな「工場(こうば)」において、軍事関連の爆弾や部品類がつくられているという懸念が連合軍側にあったためである。その結果、軍事施設ではない一般家屋や学校、神社仏閣などもまとめて一斉に爆撃されてしまう羽目となった。しかも5月8日には、ナチス・ドイツが降伏してしまった。更に11日になると、ミクロネシアの米軍マリアナ基地に配備されていたおよそ3000機の爆撃機・B29は沖縄作戦の任を解かれ、日本本土爆撃に専念することになった。それゆえ連合国側が、硫黄島基地からのP51戦闘機や空母からの艦上機と合わせて、日本の首都・東京を含む大都市圏の空襲による、日本本土制圧に戦力を注ぎ込む結果となってしまったのである。



■城南空襲の被害にあった方々の手記が今も残っている


残念なことに今日の荏原地区には、広島の「原爆ドーム」のように、「当時の生々しい状況」を物語る建物類が全く残っていない。当時の「リアル」を視覚的に知ることができるとしたら、例えば、元・警察官で、「東京大空襲」を600枚以上、愛用のライカで撮影し続けた石川光陽(こうよう、1904〜1989)が残した記録写真を見るしかない。

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