品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた (3/7ページ)
しかも、かつて「ここ」で、大規模な「空襲」がなされ、多くの人々が亡くなったことを知り、なおかつ次世代に語り継いでいける人々は高齢化のため、年々少なくなっている状況だ。
とはいえ、財団法人東京空襲を記録する会による、1973(昭和48)年刊『都民の空襲体験記録集 東京大空襲・戦災誌』には、多くの一般の人々による手記が掲載されている。新聞や雑誌記者、或いは小説家、学者などの「プロ」の手によらない「ナマの声」は、逆に我々の心深く響くものがある。
■当時12歳だった青木かほるさんの手記
例えば、荏原区豊町に住んでいた、当時12歳で女学校1年生だった青木かほるさんの手記では、5月24日の午前1時36分から2時間、B29、250機(米軍側資料によると525機とも言われている)による「波状的な絨毯爆撃(軍事関連施設ではなく、住宅地や商業地を爆撃することで、敵側の戦意や意気の喪失を狙うもの)」のあらましは、「遺体を焼く紫色の煙」と題され、以下のように記されている。
青木さんは母親と兄弟が田舎に疎開していたため、父親とふたり暮らしだった。「いつものよう」に空襲警報が鳴ったため、父親は地元の警防団の詰所へと急いだ。残された青木さんはひとり、防空壕の中に入っていた。
真暗(原文ママ)な壕の中に光がさし込んだので、びっくりして外に出た。外には照明弾が落とされ、青白い光がこうこうと輝き、B29が腹の底にひびくようなうなりをとどろかせ…(略)…異様な雰囲気に包まれていた…(略)…続いてヒューン、バリッバリッバリッと焼夷弾が2、3軒隣の家に落ちてきた…(略)…ごうごうと燃えさかる炎のうねり。見なれた家々は昨日までのなつかしい家並みではなかった。