品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた (4/7ページ)

心に残る家族葬

街は狂い、悪魔と化したかのごとく、ぐれん(原文ママ)の炎は乱れ、もうもうと立ちのぼる黒煙は逆巻き、焼けただれて真赤(原文ママ)になった電線が垂れ下がり、焼けトタンの板が熱風に舞い、逃げまどう人びとを襲う…やがて夜は明け、燃えるだけ燃え尽し(原文ママ)、廃墟と化し、余燼いまだくすぶる街をとぼとぼと重い足を引きずって、我が家の焼跡(原文ママ)にたどりついた。-なんにもない!これが昨日までの我が家の跡か。ある物は焼けトタンと瓦礫の山。たった一人焼跡に立ってぼう然としていた…(略)…道端に焼死体がころがっていた。その一体は飢え犬が片股を食いちぎっていったものらしく、真黒(原文ママ)に焼けただれた遺体のそこだけが赤いザクロのように肉が割れてはみ出していた。近所の人びとも次第に帰ってきた。が(原文ママ)どうしてもみえない顔もあった。

そして数日は、さがし出した肉親の遺体を焼く紫の炎が青い五月の空に条々と立ちのぼっていくのが目にしみた。

■実は下町空襲よりも投下された焼夷弾の数は多かった

この時、旧・品川、荏原、旧・大森、目黒、港区に投下された焼夷弾の量は3645.7トン、1平方マイル当たり225〜250トン。その総量は、3月10日の「下町大空襲」の2倍にも及んでいたという。しかし不幸中の幸いだったのは、死者数は旧・品川区では死者68名、重傷者573名、荏原区は死者184人、重傷者1712人にとどまったことだ。それは、わずか2時間ほどの爆撃で、10万人以上が亡くなったとされる3月10日の「下町大空襲」では、爆撃後、日頃隣組のバケツリレーによる軍事教練を真面目にいそしんでいた住民たちは、早速、発生した火災の消化活動に取り掛かった。しかしバケツの水程度では、鎮火は不可能だった。そして、迫り来る火の手に巻き込まれてしまった多くの人々が、亡くなってしまったのだ。この不幸な教訓を生かし、荏原区の住民たちは、いち早く逃げることに徹したため、死者数が数十万人に及ぶことがなかったという。

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