大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】 (4/10ページ)

Japaaan

「元藩主殿に対して、あまりよい待遇も提供でき申さぬが……我らも肩身の狭きゆえ、どうかご辛抱されたい」

大久保一翁。Wikipediaより

「いえいえ、大久保殿のご厚意まことに忝(かたじけの)うございまする……」

しかし、忠崇の待遇は十等属という最下級クラス。おまけに旧賊軍、しかも大名から小役人への転落とあって、周囲からイジメに遭ったことは想像に難くありません。

「おのれ、昔は昔、今は力を合わせて日本国のために奉仕する仲間ではないのか……!」

そして明治8年(1875年)、権知事(副知事)の楠本正隆(くすもと まさたか)と衝突。楠本は大村藩(現:長崎県大村市)の出身で、戊辰戦争においては遊撃隊と激しく戦った因縁がありました。

「この負け犬めが、朝敵の分際で人並みのクチを利くでないわ!」

「貴様、いつまで左様なことを……!」

侮辱に耐えかねて職を辞した忠崇は、今度は一念発起して箱館(現:北海道函館市)に渡り、豪商・仲栄助(なか えいすけ)の番頭となります。

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