大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】 (5/10ページ)

Japaaan

「かつては渡航をやめた蝦夷地に行くこととなるとは……人生は実にわからんものじゃなぁ……」

しかし人生とは本当にわからないもので、その栄助も数年で破産してしまい、今度は神奈川県高座郡入谷村(現:座間市)にある龍源院(現存)へ転がり込みました。

「当時の忠崇は植木屋の親方とか、寺男とかの名目で住込んでいながら、別に仕事をするでもなく近所の人々とも殆んど接触せず、身分姓名は一切極秘で彼を招いた山口曹参住職夫人さへ知らなかったという。ただ絵をたしなんで時折近隣の人々に描き与えていた様だが、現在は寺の遺品を除いて全く残っていない」

※『かながわ風土記』第97号「かながわの社寺縁起夜話 座間 竜源院物語 最後の大名林忠崇」より

どうやら忠崇には絵画の嗜みがあったようで、時おり達筆を振るっていたそうです。

子供の頃から絵心があった?(イメージ)

刀を振るい、鍬を振るい、そして絵筆を振るう……実に多彩な人生ですが、器用貧乏な印象も否めませんね。

そんなこんなで明治13年(1880年)、今度は大阪府で書記官を勤めますが、ここは薄給の上に多忙を極め、加えてイジメもあったようで旧臣の広部精(ひろべ せい)に就職の世話をして欲しいと書状で訴えます。

「あぁ若君(もうそんな歳でもないけど)、おいたわしや……」

お労しいという言葉がこれほど似合う状況もそうそうないでしょうが、忠崇の窮状に胸を痛めた広部は、一念発起して林家の御家再興運動を開始するのでした。

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