大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する大司法家! 近代司法の確立に尽力した初代大審院長・玉乃世履の生涯 (1/12ページ)
「明治の大岡」と通称された、司法家が明治にいます。
のちに大審院長となる玉乃世履(たまのよふみ)です。
あまり聞きなれない名前だと思いませんか?
しかしこの記事を見れば、大河ドラマ『青天を衝け』がより深く理解できます。
渋沢栄一の記録などを参考に、玉乃世履の生涯を辿りました。
気になる部分ごとにまとめてあります。短時間で知りたいところが掴めますよ。
岩国藩の尊王攘夷派の志士文政8(1825)年、玉乃世履は周防国那珂郡で、岩国藩士・桂脩介の子として生を受けました。桂家は岩国藩では上士の家柄です。
岩国藩は長州藩の支藩です。
長州藩主・毛利家の一門・吉川家が藩主(領主)を務めていました。
形式的には徳川家の陪臣(家臣の家臣)ですから、大名ではありません。しかし幕府からは三万石の外様大名格として遇されていました。
幼い頃から世履は学問に優れ、将来が見込まれていました。
世履は岩国藩主・吉川経幹の小姓役を拝命。経幹は四歳年下と年齢が近いことから、学友としても親しい関係を築いています。
藩主の小姓は、のちの藩政における立場と深くリンクしています。世履は家柄と能力は勿論、信頼を勝ち取る人格まで備えていました。
嘉永4(1851)年、藩校・養老館の学頭である玉乃九華の養子となります。
養父の九華は、医者から儒学者に転身した、学識豊かな人物でした。事実上、岩国藩の人材育成を担う立場を担っていました。
しかし同年、九華が世を去ります。
世履は玉乃家の家督を相続。当主となりました。
同年、世履は京都への遊学の機会を与えられます。
そこから三年ほどを同地で過ごし、多くの尊王攘夷の志士たちと交流を持地ました。