「どうする家康」もう君と同じ星は見えない…第40回放送「天下人家康」振り返り (3/11ページ)
能吏として活躍するが、関ヶ原で非業の最期を遂げます。
増田長盛(隈部洋平) 大和郡山22万石(54歳。家康より2歳年下)→関ヶ原では出陣せず。後に徳川家へ仕えるも息子の謀叛により自害。
五大老は元々豊臣家と対等であった大名たち、五奉行は秀吉の側近たち。その石高を比較すると、家康の250万石が圧倒的ですね。
劇中でも説明があったように豊臣政権の実務を五奉行が執り行い、五大老がそれを支える、つまり不満が出ぬよう睨みを利かせる体制でした。
ただし、口では合議制と言ったところで実際は力のある者が主導するのは世の常というもの。
毛利と上杉が束になっても敵わない徳川が実権を握りつつあったのは、誰の目にも明らかでした。
ただし毛利と上杉らもそれぞれ連携していたとは言い難く、単なる「反家康グループ」としてではなく、各大名間の確執なども描いて欲しかったところです。
一、石田三成襲撃事件について朝鮮出兵における不満を募らせていた武断派の者たち。彼らを抑えていた前田利家の死によってタガが外れ、ついに彼らが石田三成を襲撃します。
事件の様子は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』にも書かれていました。