徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (11/12ページ)
内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と、信之に無念の胸中を語ったと伝えられている。
昌幸は信繁とともに九度山で10年を過ごした。その配流生活は、さしもの昌幸をも疲弊させたようである。信之に宛てた書状には、「此の方別儀なく候、御心安くべく候。但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候。万事此の方の儀、察しあるべく候」とある。
そして1611年(慶長16)6月4日、天下人・徳川家康を相手に一度ならず二度までも煮え湯を飲ませた稀代の知将は、その波乱の生涯に幕を下ろした。享年65であったという。
まとめにかえて・真田昌幸の略年表1547(天文16)年/武田氏の本拠・甲府で誕生。(異説あり)
1553(天文22)年/武田信玄へ人質として出仕。
1561(永禄4)年/第四次川中島合戦に参戦。この時初陣か。
1566(永禄9)年/正室・山の手殿との間に長男の信之誕生。
1567(永禄10)年/同じく山の手殿との間に次男の信繁誕生。
1575(天正3)年/兄二人が戦死し、真田家の家督を継承。
1580(天正8)年/北条方の上野国・沼田城を奪取。
1581(天正9)年/武田勝頼から新府城の普請を命じられる。(異説あり)
1582(天正10)年/勝頼を岩櫃城に誘うが果たせず武田氏滅亡。
1585(天正13)年/第一次上田合戦で徳川家康を破る。
1600(慶長5)年/第二次上田合戦で徳川秀忠を破る。
1611(慶長16)年/配流先の九度山で死去。