徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】 (12/12ページ)

Japaaan

九度山に伝わる真田の抜け穴(撮影:高野晃彰)

昌幸の死後から3年後の1614(慶長19)年、大坂の冬の陣において「真田が大坂城に入城した」との知らせを受けた家康は思わず「親の方か?子の方か?」と尋ねたという。

家康のこの発言は、3年前の昌幸の死を疑っていたことを示唆する。そして、大坂入城は昌幸ではなく、信繁と知って安堵したとも伝わっている。

死してなお「表裏比興の者」として、家康を畏怖させた真田昌幸の面目躍如たる逸話であろう。

※参考文献
高野晃彰著・編集 『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ刊

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、真田昌幸徳川家康戦国武将戦国時代豊臣秀吉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る