『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期 (6/10ページ)

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その最大の美点は、領民のことを考え、領内の産業や農業を振興したことにあります。

竹田城主となった広秀は、城下で養蚕業や漆器産業を奨励しました。また、治水にも力を入れ、領内の農業生産を高めます。

広秀が整備した竹田城と城下町(但馬ふるさとづくり協会)

さらに、領民の負担を軽くするため、当時としては画期的な「三公七民」という、年貢を低く抑えた政策を行ったともいわれています。

広秀が竹田領を治めたのは、およそ15年間。これは、決して長い期間ではありません。

それでも広秀は、領民から「仁政の主君」として慕われたと伝えられ、現在も竹田周辺では「赤松さん」と親しみを込めて呼ばれる存在なのです。

関ヶ原で運命が暗転。なぜ広秀は切腹させられたのか

ところが、広秀の運命を大きく変えてしまう出来事が起こります。それが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでした。

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