『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期 (5/10ページ)

Japaaan

石高こそ高くはありませんが、竹田城は南但馬を押さえる重要な拠点で、なにより秀吉が経済基盤の一つとした生野銀山へ通じる交通路を押さえるうえでも重要な城でした。

竹田城の本丸からのぞむ南千畳敷(Wikipedia)

そのような要地である竹田城を広秀が与えられたのは、秀吉の信頼の証であった可能性が高いのです。

そして1587年(天正15年)、広秀は宇喜多秀家の妹を娶り、宇喜多家と縁戚関係を結びます。この婚姻は秀吉の命によるものとも伝えられ、これも豊臣政権のなかで広秀が大きな信頼を得ていたことをうかがわせます。

さらに広秀は秀吉の赤母衣衆にも抜擢され、小田原攻めや朝鮮出兵などにも参加しました。龍野城を失い、一度は領主としての地位を失った男が、豊臣政権を支える大名へと復活したのです。

武功だけではない、領民に慕われた「仁政の主君」

各地の戦いで軍功を挙げ、大名に返り咲いた広秀ですが、彼の優れた点は武功だけではありませんでした。

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