『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期 (7/10ページ)
豊臣大名であった広秀は西軍に属し、徳川家康(松下洸平)に味方した細川幽斎(亀田佳明)が籠もる丹後田辺城攻めに参加しました。
ところが関ヶ原本戦では、あえなく西軍が敗北。ここで広秀は、旧知であった因幡鹿野城主・亀井茲矩の取り成しを受け、東軍側に転じて鳥取城攻めに参加します。
ところが、この行動が広秀の運命を暗転させました。
鳥取城攻めの際に城下を焼き払ったことが、家康から問題視され、広秀はその責任を問われることになったのです。
この焼き討ちについては、茲矩が命じたものだったという説もあります。つまり、鳥取城攻めを主導した茲矩が城下への放火を行い、家康の責めを逃れるために、責任を広秀に負わせたのではないか、という見方です。
そして1600年(慶長5年)10月、広秀は家康の命によって自害、享年39でした。