『豊臣兄弟!』蜂須賀正勝が龍野城主になった裏で…城を奪われ“天空の城主”となった赤松広秀の悲劇の最期 (8/10ページ)

Japaaan

生野銀山(日本遺産推進協議会)

敗戦直後に西軍から東軍へ転じたにもかかわらず、なぜ広秀は誅されたのでしょうか。

その背景には、生野銀山をめぐる政治的な事情があったのではないか、という説があります。

関ヶ原ののち、家康は各地の金山・銀山などの鉱山を直轄領とし、生野銀山もその一つでした。

そのため、一説には生野銀山を手に入れたいという家康の思惑を察した茲矩が、広秀を陥れたのではないかともいわれています。

「唯一人間らしい心をもっている」と評された広秀

広秀の死後、彼が丹精を込めて整備した竹田城も廃城となりました。現在残る壮大な石垣の多くは、広秀の時代に整備されたものと考えられています。

最後に、赤松広秀の人となりを伝える逸話を紹介しましょう。

文化人としても知られた広秀は、近世儒学の祖とされる藤原惺窩(ふじわらせいか)と交流し、その活動を援助したと伝えられています。

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